コント55号、笑いの歴史を紐解く!~伝説のコンビ、人気絶頂の秘密とは?~欽ちゃん&二郎さんの笑いの軌跡
昭和を席巻した伝説のコンビ、コント55号!欽ちゃんと二郎さんの型破りなコントは、アドリブ満載で常に新鮮。テレビの枠を超えた笑いは視聴者を爆笑の渦に巻き込み、バラエティ番組史に名を刻んだ。二度と同じものはない、彼らだけの唯一無二の笑いの世界を、今、改めて振り返る。
土曜8時戦争とドリフとのライバル関係
「土曜夜8時戦争」の勝者は?
ドリフターズ
ドリフとの熾烈な視聴率争いは、バラエティ番組史に残る出来事ですよね。
裏では、友情があったというのは、少し意外でした。

✅ 1960年代後半の「土曜夜8時戦争」は、コント55号の『コント55号の世界は笑う』とザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』による、バラエティ番組史に残る戦いであった。
✅ コント55号はアドリブ主体、ドリフは徹底的な作り込みで、両者は互いに意識し、ライバル関係を築いていた。ドリフはゲストを次々と投入し、視聴率で逆転、コント55号は1970年3月に終了した。
✅ 萩本欽一は、ドリフとの関係は良好だったが、メディアがライバル関係を煽ったため、プライベートでも距離を置くようになったと振り返っている。ドリフの徹底的な稽古に圧倒され、コント55号は瞬発力での勝負だったと語っている。
さらに読む ⇒ポストセブン出典/画像元: https://www.news-postseven.com/archives/20210503_1654873.html?DETAILコント55号とドリフターズ、互いに意識しあいながらも、それぞれの個性を輝かせていたんですね。
メディアの煽り方も、時代を感じさせます。
1960年代後半の「土曜夜8時戦争」は、コント55号の「コント55号の世界は笑う」とドリフターズの「8時だョ!全員集合」による、バラエティ番組史に残る熾烈な視聴率争いでした。
コント55号はアドリブ中心の舞台芸で人気を博し、放送開始半年で視聴率30%を超える人気番組となりました。
一方、ドリフターズは徹底的な作り込みと大物ゲストの起用で視聴率を伸ばし、わずか1年で逆転、コント55号は終了しました。
欽ちゃんは、ドリフとのライバル関係はメディアによって作られたものであり、プライベートでは仲が良かったと語っています。
しかし、お互いの番組に対する意識は強く、ドリフの徹底的な稽古と計算された団体芸はコント55号にとって大きな脅威であったことを明かしています。
うーん、まさに激戦!でも、メディアが作り出したライバル関係ってあるあるですよね。面白い話が聞けて、クリエイター魂が燃えてきました!
坂上二郎さんの訃報とコント55号の偉業
コント55号の面白さの秘密は?
アドリブとシンプルなパターン
坂上二郎さんの訃報は、本当に残念でしたね。
アドリブで作り出すコントは、まさに唯一無二のエンターテイメントだったと思います。

✅ コント55号は、坂上二郎と萩本欽一によるお笑いコンビで、1991年10月に撮影された写真が紹介されています。
✅ コンビ名は、王貞治選手のホームラン新記録55本にちなんでつけられました。
✅ ダイナミックなコントで人気を博し、「飛びます、飛びます」などのフレーズが有名になった彼らは、バラエティー番組や映画で一時代を築きました。
さらに読む ⇒時事ドットコム:時事通信社が運営するニュースサイト出典/画像元: https://www.jiji.com/jc/d4?p=sbo126-photo1649&d=d4_oth彼らのコントは、いつも新鮮で、見ている人を笑顔にしました。
二度と同じものがない、というのは、本当にすごいことですよね。
坂上二郎さんの訃報は、コント55号の偉業を改めて思い起こさせる出来事でした。
彼らのコントは、台本ではなく、欽一さんのツッコミに対して二郎さんがアドリブで返すというスタイルで、常に゛新作゛だったため、二度と同じコントは存在しませんでした。
しかし、そのパターンは驚くほどシンプルで、異常な性格の欽一に翻弄される二郎の姿は、多くの視聴者を爆笑させました。
コント55号の面白さは、リアルタイムで見ていた人にとって説明不要かもしれませんが、その奥深さには彼らの才能と努力が詰まっていたことを、今回の訃報を通して改めて感じます。
坂上二郎さんのご冥福をお祈りします。コント55号のコントは、永遠に色褪せないエンターテイメントですね!
コント55号の舞台裏と萩本欽一の゛間゛
欽ちゃんはなぜテレビ局の枠を超えた行動を取ったのか?
高額なギャラ獲得のため
萩本欽一さんの「間」に対するこだわりは、コント55号の成功の大きな要因だったんですね。
公開日:2025/01/04

✅ 萩本欽一さんは「コント55号」で成功への足がかりをつかみました。
✅ 転機にはいつも「いい人」との出会いがあり、特に相方の坂上二郎さんは「最高の相棒」でした。
✅ 二郎さんの「ボケ」によって、欽ちゃんの「突っ込み」が際立ち、コント55号は観客を魅了しました。
さらに読む ⇒ニュースサイト出典/画像元: https://mainichi.jp/articles/20241228/k00/00m/200/168000c林家木久扇さんのエピソードは、当時の芸能界の状況を物語っていますね。
萩本欽一さんのプロ意識と、笑いへの探求心が伝わってきます。
林家木久扇さんは、著書「木久扇の昭和芸能史」の中で、コント55号の萩本欽一がテレビ番組の枠をはみ出して舞台を走り回ったエピソードを紹介しています。
これは、当時、お笑い芸人のギャラが低かったため、萩本さんはテレビ局の決まりを破ってでも、高額なギャラを獲得しようとしたのだそうです。
枠をはみ出ることで、コント55号は人気を獲得し、高視聴率を獲得した結果、テレビ局から高額な出演料を提示されるようになりました。
このエピソードから、萩本欽一は、お笑い芸人の地位向上に貢献した「笑いの神様」と言えるでしょう。
コント55号の舞台裏では、欽ちゃんは台本通りに演じようとする一方、二郎さんはアドリブが多かったとされています。
二郎さんは自身はセリフ覚えが得意だと主張しており、実際、歌手活動でも歌詞を全て暗記していました。
欽ちゃんは近年、55号時代のエピソードを語る際に、二郎さんのセリフ覚えには触れず、自身の゛間゛の重要性を強調しています。
55号のコントは、ほとんど台本通りだったようです。
欽ちゃんの゛間゛って、すごいんだよね!二郎さんとのコンビネーションも最高!流石、笑いの神様!
コント55号の笑いは、時代を超えて私たちを楽しませてくれます。
彼らの功績は、これからも語り継がれることでしょう。
💡 萩本欽一と坂上二郎によるコント55号は、昭和を代表するお笑いコンビとして、絶大な人気を誇った。
💡 テレビ進出、土曜8時戦争、そして坂上二郎さんの訃報。コント55号の軌跡を振り返る。
💡 彼らの笑いの裏には、才能と努力、そして互いを尊重し合う強い絆があった。彼らの功績を称えたい。